プロフィール

イーハン

Author:イーハン
満身創痍
因果応報
餃子定食
臥薪嘗胆
泰然自若
温故知新
滅私奉公
七転八倒
納豆定食
四面楚歌
五里霧中
暗中模索
千載一遇
内憂外患
心機一転
疑心暗鬼
一顧傾城
一喜一憂
栄枯盛衰
我田引水

最近の記事

カテゴリー

小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード

QRコード

チラ見総数

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ヤマカン②

前回の続き

武田家の強み…概略にはなりますが簡単に紹介。

①内政
信玄堤に代表される治水事業を展開し新田開墾を奨励、生産性向上に努め特産品の開発にも尽力。
また甲斐にある黒川金山は金を産出し、甲州金として扱われ武田家の軍資金を支えた。また『甲州法度次第』と言う分国法を施行し法令も整備。駿河併合後は水運事業の展開も構想していた。

②外交
早い時期に今川家、北条家と三国同盟を組み東と南からの後顧の憂いを断ち、信濃全域の併合のため万全に準備、のちに織田家に対抗するため浅井家、朝倉家、本願寺とも誼を通じていた。朝廷にも寄進している。

③人事
適材適所を見極め、出自、貴賤に関係なく広く有能な家臣を集め人材登用した。武田四天王や武田二十四将(江戸時代につけられた呼称)などが有名。

④情報
三つ者(スパイ)を各地に派遣し各大名の情報を収集。また国境各地に狼煙台を配置し隣国の情勢に敏感で棒道と言われる幹線道路を整備し軍事、流通にも広く活用した。

⑤軍事
上記のような要素が背景にあり精強な軍団が形成され、武田家は特に騎馬隊が有名だが、甲信地方は馬産地として知られて元来、馬術の練度も高い。加えて甲州軍学と言われる独自の戦法や戦術を駆使していた。
例えば、合戦中は合い言葉を使い、とっさに応えないものは味方でも殺されたり、指揮官が討死にしても、次に指揮を執る者が順序づけされており、他家に比べ隊列が乱れることも少なかった。指揮の号令を執る陣太鼓も有名である。
ちなみに変わり種の部隊として投石隊などもいた。

⑥信仰
諏訪大社をはじめ、寺社仏閣に多大な寄進(寄付)をし、宗教勢力とも友好的な関係を維持。信玄も自ら出家している。(出家前の名前は武田晴信)

以上、概略を書きましたが…

武田家は信玄というカリスマの存命時は強く一枚岩でまとまっていた。
しかし信玄死後は信濃諏訪出身の武田勝頼が実質の後継者になると、家臣団が古参の甲斐出身者と新参の諏訪出身者で分裂する。
結果、徐々に勝頼は諏訪出身の家臣を重用し、甲斐出身の古参家臣が最後まで反対していた長篠の合戦に踏み切り、古参の家臣団は自殺に近い突撃を繰り返して精鋭騎馬隊は織田徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅したのは衆知の事実である。
長篠の合戦は織田徳川の鉄砲隊の活躍が有名だが、武田家臣団の分裂が敗因の根底にある。

その後の武田家は親類を含む味方が次々と織田家や徳川家へと裏切り、自滅し滅亡した。

この史実は武田信玄と言う人物があまりにも大きな人間であったとも換言できる。

主家が滅んだ武田の家臣団は、後に多くは徳川家に仕えた。
家康も武田家の軍学を徳川家に取り入れ、関ヶ原、大坂の陣でも活躍している。
ちなみに
最近よく見かける…滋賀県彦根のキャラクター『ヒコニャン』
あのニャンコの赤い兜は彦根藩祖、井伊直政のもの。
井伊家は武田家臣の山県昌景隊などの赤備え(鎧が赤色の部隊)を武田家滅亡時に雇い入れ継承している。
こんなところにも武田家が関わっていたりします。

おわり

スポンサーサイト

<< ガックン | ホーム | ヤマカン① >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。